ばしょうの日常

社会人一年生のひとりごと

楽観主義と悲観主義

大学の帰りに考えていたことがあるので書いてみる。ほんとは日記に入れようと思ったけど、思ったよりも膨らんだので別にして公開することにした。

 

 

僕は最近楽観的に物事を捉えがちだ。「なんとかなるんじゃね?」とか「いけるっしょ?」みたいな。レポートを先延ばしにしているのもその理由なのかもしれない。

でも僕は自分のことを悲観主義者だと思っている。病んだ時には特にそうで、「もう自分の人生なんて終わりだ」とか「自分の人生になんの意味があるんだろう」なんてことを考えるのは日常茶飯事だ。ただ最近はあまり病んでいないのだが。

悲観主義のときと、楽観主義の時の格差が激しい。気分によってコロコロ変わる。気分屋だからなのか、それともバカ(天然)だからなのか、それはわからない。

でも、小学生の頃はわりと楽観主義というか、明るい性格だったと思う。それが年を重ねるにつれて悲観主義というか、どんどん根暗になっていくというか、そんな気がする。

 

二項対立といえば、友達の作り方なんかもそうだった。

小学生の頃はいろんな人と仲良くしていたような気がする。みんなの中の一人みたいな、そんな立場?今の自分がゆうのもなんだけど、明るかったし優しかったと思う。

でもそれが中学になって、インキャロードを進み出し、固まった人としか会話をしなくなり、人をいじめ。暗黒期。

高校の時も最初の方はみんなと仲良くみたいなタイプだったのかな?だけど途中あたりからは部活のグループとばっかり関わって他の人とは自分を区別するようになった。結果的に僕と仲良い人は仲良いけど、それ以外の人とは全く触れないみたいな、そんな感じ。

大学も結局ほとんど知っている人いないし。

つまり、友達の作り方が量から質に変化したといえるのかもしれない。

 

だけど、その中には小学校の頃の自分がいるような気がして。

確かに今は触れ合う友達は本当にごく僅かだし、友達の話を聞いて「どんだけ多くの人と交流持ってるんだよ」って思うこともよくある。

でもいろんな人にいい顔を見せようとする、小学生の時のような気持ちは今も残っているといえる。絶対に敵を作らないように、みたいな考え方が底にはあって、それが非友達のときも友達のときも発生する。もしかしたらそれが影響して、誰も僕の中身に突っ込むことができなくて、なかなか気の置けない友達が作れないのかもしれない。

あとは人に優しくするってことも、たまには起きる。だから対して仲良くない奴にも優しい奴みたいに思われることがよくある。

 

閉鎖的な人間関係を気付いている人間が、時に開放的な人間像を示す。今を生きる自分の中に、小さな頃の価値観が埋め込まれている。

暗い今の自分の中にも、明るい自分がまだ残っている。

今と昔の考え方に影響されながら、邪魔されながら、葛藤されながら、今の自分ができている。そんなことをふと思った。