ばしょうの日常

社会人一年生のひとりごと

残機0の人生

私がこの社会において変えたいと思っている部分の一つ、それは「一度失敗してしまった人間がそこから社会に復帰することが難しすぎるということ」です。

 

まずはわかりやすい例として、犯罪者から見てみましょう。

犯罪といっても窃盗から詐欺、殺人や放火などいろいろありますが、そういう悪いことをした人間は裁判で有罪判決を受けて、刑務所で過ごさなくてはならなかったり執行猶予をつけられたりされます。この時点で、この人には「犯罪者」というレッテルが貼られてしまいます。いや、もっというと警察に連行された時点でそうみなされることだってあります。

こうして犯罪者となった人たちがその後更生したら、社会復帰する必要があるのですが、この時たとえ本人が本当に反省していたとしても、この人には一生「犯罪者」というレッテルが貼られ続けるのです。まわりの人間はたとえその人が外見はいい人に見えても、「この人は犯罪の経歴があります」と知らされたらどういう対応を取るでしょうか。おそらく一歩引いてしまうと思います。多くの人がそういう対応をすれば当然「元犯罪者」からは人が離れていきますよね。そうして「元犯罪者」は周りに頼れる人間がいなくなって結局孤立し、社会に復帰することなんてできなくなってしまいます。

犯罪者といっても各々育った環境とかは変わってきますし、犯罪を犯した理由だってサイコパスだからなのか、それとも善人が生活が本当に苦しくなってやってしまったからなのか、いろいろあると思います。それぞれの事情や性格はあるのに、全部「犯罪者」という括りになってしまって、しかも周りは嫌な目で見てくるのですから、もう一般人の生活に戻るのはかなり大変になってしまいます。「再チャレンジしよう」と思った人間が頑張るというスタート地点にすら立つことができないのが今の社会だと考えています。

ちょっと話は変わりますが、僕は死刑制度には反対です。死刑にされる人というのはやはりかなり大きい犯罪を犯した人間がなるものですが、そうやって社会的によくない存在をなかったことにして解決しようとするのは間違っていると思います。もちろん人を殺すこととかは酷いことだし許されるべきではないけど、だからといってなかったことにするのでは今後も同じようなことが起きるだけではないでしょうか。一番大事なのは「二回目が起きないようにどうしたらいいのか」考えることなのに揉み消すのはよくないでしょう。目を背けずになぜそうなってしまったのか、これからどうするべきなのか、向き合うべきです。

 

今までの話は犯罪者という観点から見てきましたが、そういったレッテルというのは身近なちょっとした行為で貼られてしまいます。学校の運動会のリレーでバトンを落とした人に対しては「バトン落とした人間」というレッテルが貼られますし(それでいじられた友達がいました)、コミュ障な人間に対しては「コミュ障」というレッテルが貼られます。学歴もそうです。偏差値が高くて有名が大学に通っていれば「できる奴」だとみなされ、逆にFラン大学と言われるようなところに通っていれば「おばかさん」とみなされてしまいます。

でも、そのレッテル自体で人間は判断できないはずです。コミュ障でも何か抜きん出たスキルがあるかもしれないし、低学歴でも情熱に満ち溢れたいい人だっているはずです。私たちは、特に初対面の時、その人に貼られているレッテルに目がいってしまい、それでどういう人間なのか考えてしまいますし、実際僕もそうなってしまう時もありますが、そんなものではわからないような可能性を持っているかもしれません。

 

人生で失敗のない人なんていません。学校なり、人間関係なり、職場なり、どこかで失敗してます。一度失敗してしまった人間や変なレッテルを貼られた人間がもう一度やり直すことができる社会になっていって欲しいです。そのためには、もっと多くの人が人を外見や経歴だけでは判断せず、いろんな人間に対してちゃんと向き合っていく必要があると思います。