ばしょうの日常

社会人一年生のひとりごと

「自分が嫌いな人間のタイプ」に近づいている自分

僕が嫌いな人間のタイプの一つは「日によって態度がコロコロ変わる人」である。

中学校の時の理科の先生がそれで、ご機嫌のいい時は面白い話ばっかりしてくれるし、優しいのだが、ご機嫌ナナメの時はひねくれた質問ばっかりしてくるし、どんどん人を責めてくるしで扱うことがとんでも無く難しい怪物になってしまうのである。正直僕はその先生とは絶対にいい関係になれないと思った。そして日々の機嫌で人の対応を変えるような人間にはなりたくないと感じていた。

ところが実際は、自分のご機嫌で人に八つ当たりしてしまうことが時々ある。

誰かに話しかけられても自分がイライラしていたら「ごめん今話したくない」と言ってこちら側から会話を止めることもあったし、最悪の時は「あっち行ってて!」と言ってしまったことがある。

人間が感情に左右される動物であることも事実である。毎日ハッピーな気持ちで過ごす人などそうそういないだろう。「喜怒哀楽」という言葉があるように、人間時には嬉しかったり、悲しくなったり、怒ったり、さまざまな感情が現れる。さらにそこには「ご飯を食べられてうれしい」「寝れなくてイライラする」といった生理的な感情もあれば、「周りから孤立される辛さ」「社会の中で高い地位につけた」というような社会的感情も存在する。中にはどこかで働いている人だったら「自分は悪いことをしていないのに、クレームを言われ、『そんなの知らねーよ』と自分では思いつつ、社会組織の一員として社会的に謝罪する」というような「自己の感情と社会的欲求(感情)」が異なる場合だって存在する。そんな複雑に感情が絡み合う社会を我々は生きているのだ。

機嫌に左右されるのは誰しもがあることだろうし「イライラしている時に話しかけられたくない」と思うこともあるだろう。それでも人は、社会は、あなたに社会的振る舞いを要求してくる。この場合だったら「話しかけられたらとりあえず無視せず、とりあえず聞いてみる」とか。

自分が他人から話しかけられた時に自分の機嫌が悪いせいで人を跳ね返してしまうのは、自分のことで頭がいっぱいで社会的な対応ができる状況ではないのだろうかと、今ブログを書きながら感じた。「〜〜しなければならない」という社会の模範からの逸脱欲求。機嫌が悪くなって周りの何もかもがどうでも良くなった時、その欲求は効果を発動するのかもしれない。

ちょっとしたことでご機嫌ナナメになって相手に八つ当たりするような人間にはなりたくないが、自分がそういう人間になってしまう可能性だってある。なるべく客観的によろしくない行動は自制するようにしないといけない。それでももし相手に対してひどい対応を行なってしまったら、自身の精神的ストレスが高くなっている可能性があるかもしれないから後でじっくり自分と向き合う時間を作ってあげたいと思う。

ただ、誰しも社会的感情からの脱出欲求が現れることや自分の不機嫌によって八つ当たりしてしまうことが起きるかもしれない。そういった人々に対して我々はどう接すれば良いのだろう?人間は難しい。