ばしょうの日常

社会人一年生のひとりごと

散歩で見つけた「人のつながり」

三日前くらいに、僕は昔通っていた小中学校の通学路を散歩した。自分の場合、家から15分のところに小学校があって、中学校はそこからもう15分くらい歩いたところにあるという感じ(割と遠い方なのかな?)。何年も通ってきた道だったが、高校に入って電車通学をするようになってからは当時の通学路を通ることなどきっぱりとなくなってしまった。

しかしこの頃の情勢でなかなか遠出を避けてしまう中で、僕は自分の住んでいる街をもう一度見直してみたいと思うようになった。その街に住んでいても知らない道はいくらでもあるし、もしかしたら自分の知らないうちに町が大きく変化しているかもしれない。そう思って時間を見つけては自分の住む街をいろいろまわっているのである。

今回の散歩もそういう理由で、久しぶりに自分が通ってきた道をもう一度巡ってみたいと思ったのである。

移動するとなれば、便利なのは自転車である。僕自身、ここ半年ずっと自転車に興味がある。実際暇があればいろいろなところを自転車で回っているのだが、今回は歩くことにした。

ここ1ヶ月くらい前から僕は散歩の楽しさを感じている。

自転車は確かに速くて楽だしメリットもいっぱいあるのだけれども、その楽さが逆につまらないと感じることが時々ある。それが散歩となると、逆に時間もかかるし疲れるしで大変なのだが、逆に自分の足で地を進んでいく楽しさが生まれる。うまく表現できないのだが、自転車には自転車の良さ、徒歩には徒歩の良さがありどちらも捨てがたいというのが今の僕の現状である。

ちょっと脱線したが、散歩した時のことを話していこう。

まずは小学校に向かうのだが、当時のことが懐かしく感じた。例えば「この道で電車ごっこしていて、ここには駅作ってたな」とか。小学校の頃はまじでちゃんと電車ごっこをしていたと思う。やばいと思うけど、自分で各駅停車とか急行とかを作って、途中の駅で待避させて、途中の駅で分岐させて。通学路の範囲だけ簡単にダイヤを考えてみて、学校の帰り道に「18分の快速に乗るんだ!」と急いで学校の外に出て、タイヤ飛びが並んでいるところに駅を設定していたので、そこから電車に乗っている気分で歩いて帰ったり。今そんなことをしたらさすがに変人扱いだけど、当時は楽しかったなあ。

小学校に着いた時「学校は昔と変わらないけど、変わってしまったな」というおかしな感情を持った。当時自分がここまで歩いて通ってきていたことや当時ここで学んでいたことへの懐かしい気持ちと、自分が通っていたことがまるで嘘のようにその場所はもう僕を受け入れようとはせず、拒絶するような様子だったことの相反する気持ちの交錯の気持ち。自分が今見ている景色はあまり変わらないのに、雰囲気は変わっている。そんな印象を持った。自分が歳を取ったことも実感した。

小学校に着いたところで時計を確認してみると成長して歩く速度が速くなったのか、小学校に着くまでの時間が小学生時代よりも速くなっていることに気づいた。

小学校に着いたら次は中学校に向かうのだが、この時夕方で部活終わりと思われるジャージを着た生徒らが歩いているのに結構出くわした。一時は部活もろくにできない時もあっただろうけど、今はできるようになったのかと思うとちょっとだけ良かったなあと感じた。

中学校に行くまでの道は住宅街の中を進むので歩いている人があまりいなかった。少し寂しかったが、あたりのマンションや家を見ると、そこには明かりが灯っていて、安心した気持ちになった。確かにコロナのせいで外に出るのが憚られる時代だけど、家の中にはまだ人の繋がりや温もりといった優しい世界が広がっていることを感じることができたからだ。

中学校の近くには新しい団地が建てられていた。きっとこの建物ももう少ししたら人と人を支える暖かい場所になるのだろうと感じた。

中学校に着いて、また懐かしさを感じた。正直、中学校生活にあまり楽しかった思い出はない。むしろ嫌な思い出の方がいっぱいあると感じるくらいだ。正直黒歴史だし、話したくもないことばかり。だけどこの場所にきたら、結局自分を作っているのはこの時代があったからだと認識した。確かに嫌なことばかりだったかもしれないけど、そうした色々な経験や体験を元にして今の自分があるのだと思うと、少し感慨深かった。嫌な思い出がこの場所で少しだけ笑えるような気がした。時間を見たら、寄り道をしていたせいか家を出てから1時間くらい経っていた。「そろそろ帰らなきゃな」とこの場所を後にした。

ちなみにこの散歩中、僕はずっとイヤホンで曲を聴いていた。自分が聞いている曲も、他のたくさんの人が聞いている時代。ずっと昔は音楽を保存できる媒体なんかなかったらかわざわざ音楽を聴きに移動していたが、後にレコードができ、それが輸送手段を使って日本中、いや世界中に広がる。さらに進化して、CDができて、今はスマホで音楽を聴く時代。サブスクリプションなんてものも始まって、時代は変わりつつある。すごい世の中だよなあ。音楽を通じて遠く離れた人とつながっている。どこの誰かも知らない誰かと。だけど、音楽の形が変わろうともそれを楽しむ人々の姿は変わらないというか。どんな時も人とつながっているんだなと。

今日の散歩でも、つながりを感じることができた。コロナで社会が変わっていく中で、通勤・通学が変わり、人々の姿もマスクが標準になってしまったし、生活が苦しくなってしまった人だっているはず。我々はマスクをしない人を大抵拒絶するようになった。日常でもお店ではお金を持たずに商品を持ってきた人を拒絶し、ホームレスを見ても見てみぬふりをして通り過ぎ、自分と違う価値観の人を無理やり押し込もうとしたり、分断したり。人の醜さがよく見える社会になってしまったが、それでも繋がりは残っていた。マンションには明かりがいっぱい着いていて、ご飯を作っているのかちょっぴりいい匂いもしたし、近所の公園ではおじいちゃんおばあちゃんらが固まってやきとりを食べながら語り合っているのも見えた。旅行帰りでニコニコしながら語り合う家族も、自転車に乗って通学している学生どうしが楽しそうに喋っているのも見えた。どんな世界にかわろうとも、人とのつながりは残っていくのだろう。

人とのつながりだけではない。自分の時間も繋がっている。時間に分断が生まれていたら今の自分は存在しないし、それは今を生きる70億人だってそう。どんな過去でも、それが楽しくても辛くても、その自分を作るのは過去の自分だし、今のことがつながって未来が作られていくのだろうと感じた。

そういった「つながり」をもっと学びたいと思ったのも、社会学を学ぼうと思った理由の一つである。

この先どういう社会が生まれていくのだろう。アメリカは大統領選で分断が生まれてしまった様子だが、コロナ社会で分断は至る所に起きているはずだ。厳しい社会だろうが、「つながり」だけは残っていって欲しい。