ばしょうの日常

社会人一年生のひとりごと

効きすぎたブレーキ

ブレーキといえば、自転車や車のブレーキを思い浮かべる人が多いだろう。自転車の場合、信号の前で自転車を止めるときや下りの坂道でスピードが速くなりすぎないようにブレーキを使う。ブレーキがなければ足で踏ん張って止めないといけないのでかなり危険であり、事故につながる危険が高まる。ブレーキの存在は必要不可欠であるといえるだろう。

ブレーキは人間も持っていると言えるだろう。例えば、人は詐欺の電話が来たときに「これは危ないぞ」と思って詐欺師の話にのせられないように自分にブレーキをかける。調子に乗りすぎて怒られた人間は自分の活動を見直して良くないと思う行動にブレーキをかける。このように、ある動いている力に対してその力を弱めたり0にしたりすることがブレーキの役割であろう。

では、あなたは動き出す前(0km/hの状態)から両方のブレーキをかけている状態の自転車を漕ぎ出すことができるだろうか?もちろんペダルをこごうとしてもかなりの力がいるため容易ではない。0の状態のものにブレーキがかけられていては、進み出すことはできないのである。

私は、このことは人間生活でもいえると思うのである。しかも私は、そのブレーキが聞きすぎているのではないかと感じている。特にコミュニケーションで。

ブレーキが効きすぎる例は大きく分けて4つある。1つ目は、自分の情報が言えないことである。例えば学歴とか、どこで働いているとか。大学受験の時もほとんど「どこの大学に行きたいか」なんて言わなかった(言いふらしまくるやつもどうかと思うが)。友達だけならまだしも、親にも11月くらいまでほとんど言っていなかった。

2つ目は、人を名前で呼ぶことに抵抗を感じてしまうことである。人を名前で呼ぶということが私は特に苦手で、名前を読んで「人の名前を軽々しく呼ぶな」とか言われるのがとてつもなく怖くていうことができないのである。

3つ目は、挨拶ができないこと。特に、2人以上で話している現場に自分が入るのが苦手である。なんと言って入ったらいいのか、さっぱりわからない。他の人は横から割り込んだり手で人のからだを押して割り込んだりしているが、そもそも人が話している中で入るのはとても悪い感じがするし、割り込むにしてもいちいち人を押していたら嫌われるのではないだろうか、と思ってしまう。また、僕は知っている友達を見かけると、避けてしまうことが多い。別にそれが好きな人でも嫌いな人でも、である。自分が入ることで嫌がるのではないか、面倒なことになるのではないかと考えてしまうのである。ちなみに、イヤホンをつけている人に声をかけるのも僕は苦手である。人の音楽タイムを邪魔することになるのかもしれないのだから。

4つ目は、人にLINEができないことである。友達の誕生日にラインを送るのも、ゲームの誘いを送るのも、どれもブレーキがかかる。人にラインして悪い思いにさせてしまったらどうしようとか、ちょっとやりすぎかなとか思ってしまいなかなか送信ボタンを押すことができない。相手のことを気にするあまり、自分の行動を自制しすぎている。

しかも、私は今例にあげたこの4つを克服することはとてつもなく容易ではないと感じている。なぜならそこには「効きすぎたブレーキ」がかかっているから。今までそうやって超慎重に、そして人と関わることをなるべく避けて生きてきた私のような人間には、もうそういう習慣が身についてしまっており、もし何か変わったことをやろうとすると、勝手にブレーキがかかってしまうのである。このブレーキを緩めることは、まさに「自分を変えること」になるのであり、そう簡単にはいかない。

「効きすぎたブレーキ」といっても様々だが、これを「自分はこういう人間だから」といってそのままにするというのももちろんありである。それは個性となり、自分という人間を構成するものとなる。しかし、このブレーキを緩めたい人だっているはずである。中には緩めたくてもなかなか難しい人だっているはずである。実際私だって少しゆるめたい。もっと人間関係にゆるく生きていきたい。もっと自分の気持ちや意志に素直になりたい。楽になりたい。自由になりたい。

だけど、僕のブレーキはかかり続ける。